マクドナルドの法則

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703. マクドナルドの法則

ユーザ名(Username): 主観の新茶
日時: 2010/11/5(00:00)

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 マクドナルドの法則
 文献としては,取引制度から読みとく現代企業,加護野忠夫男ほか著,有斐閣アルマ,P172〜P176等参照。以下,「現代企業」と略す。

 マクドナルドの1号店は,1971年7月20日,東京は,三越デパート1階にできた。
 上記「現代企業」という本によると,マグドナルド(McDonald's)を英語で発音すると,「マクダーナルズ」となる。平板に読むのではなく,発音としては,「(ダを強め)マクダーナルズ」となるという意味であろう。しかし,これでは日本人は,発音しにくいから,日本人が発音しやすい「マクドナルド」に変更したのだそうだ。前記参照ページにそう記載してある。
 へえ,そうなんだ。わざわざ故意に変更したんだね。当時の社長は,有名な藤田田氏である。

 我々は,もし,原音を日本式発音に故意に変更したことを認識していたら,McDonald'sについての日本式発音と英語式発音の乖離現象について,特に目くじらを立てて,言及する必要はなかったのである。
 なぜなら,McDonald'sの原音を知っているからであり,知っていて,わざと変えたことも知っているのであるから。
 ところが,我々が,必ずしも故意の変更を認識していないとしたら,言及する意味があることになる。

 英語の分野の酒井邦秀さんの「マクドナルドの法則」は,「どうして英語が使えない」(ちくま学芸文庫)P94以下に説明が施されているが,「音節の強弱」の話である。McDonald'sは,「ムダノス」と聞こえると説明されている。その後の説明を読むと,平板にムダノスと発音されるのではなく,言ってみれば,「(ダを強め)ム,ダーノス」のように聞こえるという意味だと書いたのだと,私は,理解している。

上記「現代企業」の表記「マクダーナルズ」と酒井さんの「ムダノス」は,表記は若干異なるが,原音を日本語表記しようとした点で,言わんとすることは,同じである,と私には解せられる。

 ところで,「現代企業」の本には,「マクドナルドの原則」という用語が出てくる。
 マクドナルドの原則とは,Quality,Service,Cleanliness,Valueの経営理念,つまり,QSC&Vの原則のことである。
 ここで,日本語として,法則といおうが,原則といおうが,「マクドナルドの法則(原則)」というテーマからみて,用語としては,さして異なるわけではない。しかし,「マクドナルドの法則(原則)」という用語の内容は,経営学と英語学という分野が異なれば,全く異なることが,上述の例である。

 なお,余談であるが,このころ,出現したものに,コンビニがある。
 コンビニの第1号店は,1974年5月15日,東京都江東区豊洲にできたセブンイレブンである。
 この1号店は,いまだに存在していることでも,有名である。

 私にとっては,日本が高度経済成長を続けていた時代の末期の出来事として,コンビニもマクドナルドも,2つとも,年代を忘れ得ない出来事である。
 というより,誰にとっても,日本及び世界の経済その他の社会現象を,体系的に認識した場合,つまり「経済法則」等として認識した場合には,マクドナルドやコンビニの出現時期は,決して忘れ得ない出来事の一つに違いないであろうと思われる。

 ちなみに,「法則」という用語は,社会科学の用語でもあり,社会科学を理解する前提の大事な言葉である。「法則」という言葉は,辞典で調べてわかる言葉ではない。辞典で調べるという発想では,頭につける薬はない。社会科学の中の定評ある本を読んで理解できれば,いたるところに出てくる言葉であるから,自然に体得する言葉である。また,古代からの西洋の歴史を正しく知ることは,「法則」という言葉が,自ずとわかることでもある。古代からの西洋の歴史を正しく知るには,若年時から営々として自分で定評のある歴史書を紐解くのみならず,仕事や私事において,現実に社会の中で,社会現象を西洋の歴史に照らして解釈するという長い年月の実践が必要であろうと思われる。

 学校の勉強で,歴史を知るというのは,単なる導入線である。しかし,歴史にしろ,英語にしろ,学校の勉強を馬鹿にしてはいけないと思う。学校の勉強は,教師に恵まれ,かつ,本人にもやる気と素質があれば,導入線として有効である。
 本当は,大事な税金を投入するのであるから,多くの人にとって,有益な導入線であれかし,と思う。現実には,有効な人の確率は,そう多くないかもしれない。税金の無駄使いといえば,無駄使いである。いっそ,有益でない輩には,学校にも行かせず,野放しにした方がよい,とも思われる。学校の英語に文句をつける人には,そもそも,他人の労働の成果である税金の投入をしてやる必要がない,とも考えられる。親が,私費で,習い事をさせればよいのではないか。勉強が嫌いなら,そもそも,学校に行かせなければよいのではないか,とも想定される。しかし,そうなると,一国の教育の水準としては,よろしくない事態が発生する,という懸念が大きいのであろう。現実には,そうならない。しかし,一度,日本で,実験してみたらどうだろう。案外,悪くならないかもしれない。
 ところで,先に,「学校の勉強は,教師に恵まれ」と書いたが,たとえば,1000万円の報酬をやるのに,200万円の働きしかしないのであれば,ろくな教師ではない。今の教師は,この意味で,ろくな教師が少ないのではないかと思う。まともなのは,おそらく,小中高大,すべて,各学校の2割程度であろう。だからといって,教師に,再任の試験を課すというのも得策ではない。なぜなら,教師を採点する側の教師も,ろくでもない人がいるからである。
 これを抜本的に解決するためには,「なりたい人」を教師にし,かつ,いくらなりたくても,たとえば,5年とか7年とか10年とかを上限とし,人生で学校の教師ができるのは,その短期間だけにする,というような制度を設けるのがよい,と私は考えている。
 有為な人の中には,自分の仕事を犠牲にしても,子供たちに教えたいという人がいるであろうし,その確率は,常に,必要な教師の数くらいの確率はいると思われるし,有為な人も,人生すべての期間に有為とは限らず,教える情熱がある期間は限定されると思われるから,どんなに有為であっても,たとえば,7年というような年限を限るのである。それ以上教えたければ,自分で私塾でも開けばよい。
 燕雀,いずくんぞ鴻鵠の志を知らんや。燕雀の教師は,あるいは,長い年月の間に,教え方などが円熟し,長年教師をする意味があるなどというかもしれない。そういう教師もいるであろう。しかし,今のように,何事もなければ,ほとんどすべての教師の身分を定年まで認める弊害の方が大きい。教師を辞めたら,次,何の仕事に就くのだ,仕事がないだろうという反論を受けるかもしれない。それこそ,教育制度の根本の趣旨を没却した論に過ぎない。教師を辞めたら,ほかに脳がない人を教師にしておく方が,間違っているのである。


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